日本にCAPが導入された頃をふりかえって
田上 時子(たがみ ときこ)
特定非営利活動法人 CAPセンター・JAPAN 元副理事長
日本にCAPが導入された頃をふりかえって
田上さんは、1995年に日本で初めてのCAP実践者を養成する講座開催窓口を担われ、その後もCAPの普及に積極的に関わっておられます。今回、田上さんが直接CAPに関わることになったお話を通して、その当時の日本の社会状況をふりかえります。
大学卒業後、カナダに留学して、ジャーナリストとして仕事をし、1988年に帰国しました。そのころ、欧米は第二波フェミニズム運動の流れのなかで、性暴力の存在が明らかになり、私はそれらを分析した情報をたくさん受け取っていました。一方で日本は、子どもへの暴力・虐待に関して書籍が書店にまったくない、つまり社会問題にもならず、子どもへの暴力はないものとされてきた時代でした。
帰国した年に、東京埼玉幼女連続殺人事件が起こりました。当時とられた防止策は「知らない人・変な人についていってはいけません」「一人になってはいけません」というもので、日本の時代錯誤の防止策に驚き唖然としました。というのは、否定表現には具体的な行動の選択がなく、これでは幼児期の子どもへの性暴力の防止策として効果がないことを、カナダで学んでいたからでした。幼い娘がいた私にとって、これは困ったことだと思いましたが、相談できる人は誰もいませんでした。それで、事件をきっかけに、私は、『わたしのからだよ』(わたしのからだはわたしのもので、いやな触られ方をしたら「いや」と言っていい)という絵本をおとなのための教則本とセットにして販売しました。その後も、『ライオンさんに話そう』という本を出しました。これらの本は、“子どもには内なる力がある”ことを前提に出版した本です。
子どもへの暴力の加害者はむしろ子どもの知り合いである割合が高く、子どもは無力であるという子ども観のために、何もできないから、とにかく加害者に近づいてはいけないという防止策は、もし被害を受けると、子どもが責められることになりやすいのです。かつてのアメリカもそうでしたが、日本の暴力防止は旧態依然としたものでした。私は、“子どもには内なる力がある”ことを実証するために、1992年にアメリカへ取材に行き、CAPについて直接話を聞く機会を得ました。
1994年は、子どもの自殺がたいへん多かった年です。いじめを理由に亡くなった子どもの多くが、遺書に「自分さえいなくなれば…」と書いていたことに、本当にやるせない気持ちになりました。亡くなった子どもたちは、またいじめられたらどうしようと不安でならなかったと思います。
1995年には阪神・淡路大震災が起き、私も被災し、PTSD(心的外傷後ストレス障害)症状が起こりました。虐待を受けた子どもが抱えるPTSDは、こういうものだったのだと実感しました。
1995年4月になって、日本でCAPの養成講座を開催すると聞き、関西の開催窓口を引き受けました。私に震災の経験がなく、当時の日本の子どもの状況が違っていたら、CAPに関わることはなかったでしょう。
あれから15年、CAPは日本で目覚ましく普及しました。子どもへの暴力防止の老舗となりました。長い歴史があるというのは信用に足るプログラムだからです。CAPの「A」はAssaultで、すべてのあらゆる暴力を意味しています。
つまり、あらゆる暴力に対応できる包括的プログラムということです。子どもの発達を考慮し、防止策としてできること「NO・GO・TELL」を伝えます。これは、子ども自身が対処できる知識と方法と何よりも自信を与えるエンパワメントの考え方に基づくもので、結果、自己肯定感を高められ、子どもたちが社会を生き抜くための力を得ることができるのです。
(CAP NEWS20号<2011年9月発行>より転載)